「そうですか。やはりあなたはあの男をご存じなんですね」一旦、病室を出て同じ病棟の談話室へ移動すると一番年長の警察官が里中に声をかけてきた。「はい。俺が勤務している病院の自動販売機のオペレーターです」「あの男とは友人関係だったんですか?」「はい、友人です」「しかし、彼の方はそう思っていなかった可能性がありますね」警察官は何故か意味深なセリフを吐いた。「あの……一体それはどういう意味なんですか?」すると今まで2人の会話を聞いていた若い警察官が口を挟んできた。「君は何も気づいていなかったのか?」はっきり言わない警察官にしびれを切らした里中はイライラした調子で声を上げた。「さっきから一体何が言いたいんですか? はっきり言って下さいよ!」「ああ、これは失礼」若い警察官を制すると再び年配の警察官が謝ってきた。「この男はねえ、昨夜9時半頃に雑居ビルが立ち並ぶ歩道橋の下で頭部から血を流して倒れている所を発見されたんですよ」ゴホンと咳払いして警察官は続けた。「幸い、身元の確認はすぐに出来ました。携帯電話を所持していましたからね。それでちょっと面白いことが分かりましてね」「面白いこと?」里中は眉をひそめた。「彼の発信履歴を見ると、ここ最近ある一定の時間に何度も何度もあなたに電話をかけていることが分かったんですよ」「え?」一瞬何を言われているのか分からなかった。「あなたのところに最近毎晩のように電話がかかってきていませんでしたか?」「!」(まさか……あの無言電話の相手が……!?)親友だと思っていた長井がストーカーだったとは思いたくなかった。しかし現実は残酷だ。「この女性に見覚えありませんか?」警察官は1枚のスナップ写真を見せてきた。そこには隠し撮りしたかと思われる千尋の姿が映されている。「千……尋さん……」「やはりあなたは彼女を知ってるんですね。この写真、発見時に長井が所持していたんですよ。いや、実は我々は最近こちらの女性からストーカー被害の相談を受けていたんですよ。それで彼女の自宅付近を毎晩パトロールしていましてね」里中は黙って警察官の話を聞いている。「昨夜は2名体制でパトロールをしていたのですが、ボヤ騒ぎで二手に分かれて行動したんですよ。1名はこの女性の自宅付近に待機していたんですが、近所の家の窓ガラスが割られる悪戯があ
「ほう。あなた、犬の名前までご存じだったんですね」「勿論です! ヤマトはうちのリハビリステーションのセラピードッグだったんですよ。すごく賢くて大人しい犬なんです。だからそんな行動に出たなんて、正直驚いていますよ!」「……余程、ご主人を慕っていたんでしょうねえ」「はい、そう思います」里中は唇を噛んだ。「我々は警察官を1名病院に残してこれから長井の住むアパートに行ってきますよ。ご協力感謝いたします。病院まで送りますよ」警察官たちは立ち上がった。「あの……」里中はまだ椅子に座ったまま俯いた。「何です?」先程まで話をしていた警察官が返事をした。「長井は……またストーカー行為を続けるでしょうか?」「ああ、それは無いと思いますよ」こともなげに言う警察官に里中は不思議に思った。「どうして言い切れるんですか?」「……恐らく落下した時に第5頸椎を損傷したのでしょうね。もう一生車椅子生活になったらしいです」「え? 長井はもう二度と歩けない身体になってしまったんですか?!」あまりにも衝撃的な話しばかり続き、里中は眩暈がしてきた。「まあ、自業自得ってところもありますね。それに運が良かったじゃないですか? 下手したら死んでたかもしれないところを助かったのですから」若い警察官が口を挟んできた。あまりの言いように里中は頭に血が上ってしまった。「なんだってそんな言い方するんだ!! お前、それでも警察官か!?」気が付けばその警察官の胸倉を掴んでいた。「ぐっ……」胸倉を掴まれた警察官は苦しそうに呻いた。「まあまあ、落ち着いてくださいよ。今の言い方は確かにこちらが悪かったです。許してやってください、まだ年若い男なので」年配の警察官に止められて、里中は手を離した。「すみません……つい乱暴な真似をしてしまって」若い警察官はまだ苦しそうに喘いでいる。「……長井の目が覚めたら連絡貰う事は出来ますか? これでもまだ俺はアイツのことを親友だと思っているので」「ええ、分かりました」その後、里中はパトカーに乗せられ再び山手総合病院へと戻った――**** 千尋は中島から今日は仕事を休むように言われて自宅のリビングにいた。目の前には女性警察官が2名いる。1人はショートヘアの若い女性、もう一人はメガネをかけた30代位の女性警察官である。「この男性に見覚えがあ
「え……? ええ!?」千尋は改めて写真を見直した。浅黒い肌にがっちりした体形はスポーツマンタイプでとてもストーカー行為をするような人間には見えない。「もう安心して下さい。二度とこの男にあなたはストーカー行為をされる事はありませんから」若い警察官は笑顔で言った。「あの? それはどういう意味ですか?」「昨夜、あなたが飼っていた犬に追いかけられた長井はここから約2km程離れた場所にある歩道橋の下で頭から血を流して倒れていました。不審な点があったので警察病院に搬送されましたけど、頸椎を損傷してしまったらしく、もう二度と歩くことは出来なくなったそうです」メガネの警察官が代わりに答えた。「その話……本当ですか? この人が私をストーカーしていて、ケガで二度と歩けなくなったって言うのも……?」「ええ。後は本人の目が覚めてから事情徴収に入ります。まだ眠っている状態なので」「あの、それでヤマト……私の犬はどうなったのか分かりますか? 昨夜から帰って来ないんです」「申し訳ございません。長井が犬に追われていた情報はありますが、長井が発見された後の犬の目撃情報は無いんです」「そう……ですか……」千尋がうなだれると、若い警察官が慌てたように言った。「あの、私も犬を探すの手伝いますので元気出してくださいね!」「ちょ、ちょっと……」慌てたようにメガネの警察官が止めようとしている。「大丈夫! 警察官は善良な市民の味方です!!」どうやらこの女性警察官は熱意にあふれていたようである。 女性警察官たちが帰ると、千尋は本当にこの家に一人きりになってしまった。窓の外を眺めてもヤマトの姿は見えない。ストーカーの恐怖は去ったけれども、ヤマトのいない寂しさには耐えられない。「ヤマト……何処に行ってしまったの? 早く帰って来てよ……」千尋は誰もいない部屋でカーテンに顔をうずめて一人泣き続けていた——**** その頃、警察病院ではちょっとした騒ぎになっていた。「おい、長井が目を覚ましたって?」先程里中と話をしていた年配の警察官が病室に向かって足早に歩いている。「はい、警部補。警察病院から連絡が入ったんですよ。長井の目が覚めたけど、ちょと困ったことがあったと言って」若い警察官も必死で後を追いながら説明する。「何だ、困ったことと言うのは? お前も長井に会ったんだろう
「一体、どういうことなんですか!?」病室の廊下に出ると、警部補は担当主治医に詰め寄った。「あ、あの。私の専門は外科なので説明を求められても困るのですが……」白髪交じりの男性医師は壁際に追い詰められている。「それじゃあ専門の医師をここに連れて来て下さいよ! あのままじゃ取り調べなんて出来っこないじゃないですか!」「そんなことを言われましても本日は心療内科の医師が不在の日なので……」「はあ? 病院は24時間いつでも対応出来るものじゃないんですか? 我々警察だって24時間いつでも対応できる準備をしてるんですよ!?」「医者と警察を一緒にしないで下さい!」「何だと!」「警部補、落ち着いてください! すみません、先生。血の気が多い方なので……」若い警察官は必死になって2人の間に入って止めに入った。「とにかく家族に連絡を取って下さい! 私たちだって困っているんです。精神は幼児返りしてしまっているし、頸椎損傷と言う大怪我を追ってるので今コルセットで固定していますが、これから大きな手術をしなくてはならないので親族の同意書が必要なんですから!」医師は大きな声をあげた——**** あの騒ぎから約1時間後― 病院の談話室で警部補と部下はコーヒーを飲んでいた。「それにしても長井には驚きましたね。自分の犯した罪を逃れる為に演技をしてるんでしょうか?」部下が質問してきた。「いや。それは多分無いな。とても演技している様には見えなかった。」つい先ほどまでの長井とのやり取りを警部補は思い返した……。****『長井、里中って男を知ってるか? お前の親友だと言ってるが?』警部補は長井の枕元に椅子を持って来ると、そこに座り質問した。『誰? 里中って人はどんな人なの? 親友って……お友達のこと?」『お前が出入りしていた病院のリハビリスタッフの男だ! ずっと嫌がらせの無言電話をかけていただろう!?』『うう……このおじちゃん、怖いよお……』長井は再び目に涙を溜めながら怯えている。『それじゃ質問を変える。この人物は分かるだろう? お前がストーカーしていた女性だ』里中が持っていた千尋の写真を見せると長井の目の色が変わった。『やはり、今まで演技していたな!?』しかし……。『うわ~綺麗なお姉ちゃんだねえ。僕、大人になったらこのお姉ちゃんと結婚したい! ねえ
仕事が一段落し、遅めの昼休憩に入ろうとしていた里中を主任が呼び止めた。「里中、ちょっといいか? お前に電話がかかってきているんだが」「電話の相手って誰なんですか?」里中は受話器を受け取りながら尋ねた。「警察からだよ」「え?」(まさか長井の目が覚めたのか?)逸る気持ちを抑えながら里中は受話器に耳を当てた。「お電話替わりました、里中ですが。……はい……はい。え!?……そうですか。分かりました。後程そちらに伺います。え? 迎えに来てくれるんですか? ありがとうございます。連絡お待ちしています」やり取りの様子を野口はじっと見つめ、里中が受話器を切ると尋ねた。「警察の人、何だって?」「長井の目が覚めたそうです。俺にどうしても今日会わせたいって言ってきました。仕事が終わる時間に迎えに来るって言われました」「そうか……」「俺、まだ信じられないんですよ。あの長井がストーカー行為をしていた挙句の果てに、二度と歩けない身体になってしまうなんて。どうしてあんな事をしたのか、はっきりアイツの口から聞きたいんです。千尋さんにも怖い思いをさせ、俺にも嫌がらせの無言電話をかけてきてるのに、どうしてもアイツを憎むことが出来なくて……。俺って変ですか?」野口は黙って聞いていたが、やがて口を開いた。「やっぱり里中、お前っていい奴だな」「え?」「考えても見ろ、普通の人間だったら自分が親友だと思っていた相手にこんな裏切行為をされれば憎しみに替わると思うぞ? でもお前は、そうはならなかった。純粋な人間だってことだよ」「い、いや……単純馬鹿なだけですよ」里中はポリポリと頭を掻く。「里中、お前今日は早めに上がっていいぞ。警察にも連絡いれておいたらどうだ? 警察の方でも早めに協力して欲しいと思っているだろうから。17時にはあがっていいからな」「はい! ありがとうございます」野口に言われ、里中はあの後警部補に連絡を入れた——****—―17時仕事を終えた里中が職場から出てくると、既に病院の前にパトカーが待機していた。「里中さんですね? どうぞお乗りください」運転していたのは初めて見る警察官だった。「ありがとうございます」お礼を言って乗り込むとパトカーが走り出す。里中は窓の景色を眺めながら千尋のことを考えていた。「すみません、電話をかけてもいいですか?」
「渡辺さん、さっき電話がかかってきてたみたいだけど何の電話だったの?」接客を終えた中島が渡辺に尋ねた。「山手総合病院の里中って人から千尋ちゃんのことを聞かれたの。お休みだから伝言があれば伝えますって言ったけど大丈夫ですって断ってきたけどね」「え? 里中さんからだったの? 青山さんが休みだってこと知らないから電話してきたのね。何か進展あったのかしら……?」「千尋ちゃん、ヤマトがいなくなってさぞ心配でしょうね」渡辺がぽつりと言った。「本当にね……」「あ、店長こちらにいたんですね」突然男性が顔を出してきた。新しく雇った店員で年齢は29歳。千尋のストーカー事件をきっかけに中島は男性を起用したのであった。「ここの納品書で確認したいことがあるのですが」「分かった、原君。すぐに行くから」「お願いします」原と呼ばれた男性は、すぐ店の奥に顔を引っ込めた。「原さんて中々働き者ですよね」渡辺が言う。「そりゃそうよ、私が面接して決めたんだから。さて、仕事に戻りますか」「そうですね 」その時、自動ドアが開いてチャイムが鳴り響く。「「いらっしゃいませ!」」中島と渡辺は声を同時に揃え、接客へと向かった——****一方、その頃里中はパトカーを降りて警察病院の前に立っていた。「長井……」「里中さん! お待ちしてました」警部補自ら里中を出迎えに病院から出て来た。 「いや~すみません。わざわざご足労頂いて」並んで歩きながら警部補が話しかけてきた。「いえ、それより長井の目が覚めたって電話で教えて貰いましたが、どうですか? アイツの様子は」「いや~それが実はですね……ちょっと色々ありまして……」言葉を濁す警部補。「どうかしたんですか? アイツ、千尋さんにストーカー行為をしていたことを認めたんですか? それに自分がもう歩けなくなったことは話してあるんですよね? アイツが自分の罪を認めて改めるなら、俺は長井を自分の患者として受け入れてリハビリの訓練をさせたいと思ってるんです」「……」警部補は里中の話を黙って聞いている。「どうしたんですか? 何かありましたか?」里中は警部補の様子がおかしいことに気が付いて声をかけた。「里中さん、いきなり長井に会うと驚かれるかもしれないので、事前に伝えておきます。実は、長井は……」ガシャーンッ!! その時
床には割れた花瓶の破片と花が散らばり、びしょ濡れに濡れている。ベッドの上には顔を真っ赤にして涙でぐしゃぐしゃになりながら泣きじゃくっている長井がいた。周りにいる警察官達は引っかかれでもしたのか顔や手首などに赤い筋があり、血が滲んでいる。「皆出て行ってよーっ! うわーん! ママーッ!! どこにいるのー!?」「な、長井? お前、一体どうしたんだ?」里中はゆっくりと長井に近づこうとすると、今までにない程の憎悪のこもった目で睨まれた。「誰だ! お前は! 僕の前から消え失せろっ!!」長井は手元にあった時計を里中に向けて投げつけた。咄嗟によけた時計は激しい音を立てて床に落ちる。「だ、駄目です里中さん! ここは一旦引きましょう!」呆然とする里中の腕を引っ張ると警部補は強引に部屋の外へ連れ出した――「すみません! 警部補! 自分の見込み違いでした!」里中に会わせてみたらどうかと提案した警察官が頭を下げた。「むう……。いや、気にするな。長井の今の状態は誰の手にも負えないだろう」警部補は腕組みしながら唸る。「どういうことなんですか? 長井に何があったんですか? 説明して下さいよ!」里中は警部補に問い詰めた。「実は医者の話によると長井は幼児退行を起こしてしまったらしいんです」「幼児退行?」「原因はまだ分かっていませんが、例えば強いストレスやショック等の様々な原因により発症すると言われている精神疾患です。長井の場合、歩道橋から落ちて頭部を強打したのが原因か、もしくはその前に何か強烈なショックを受けて、あのような状態になってしまったのか……。まともに事情徴収出来る状態じゃないんです。おまけに誰がしゃべったか分からないが、二度と歩けない身体になったと本人に告げたようだし。こちらとしては長井が元通りになってから話すつもりだったのに……」警部補は深いため息をついて、里中を見た。「あなたに会わせれば、長井が元に戻るかと思ったのですが、逆効果だったみたいですね。かえって興奮させてしまったようだ。先程医者に注意されましたよ。大事な手術が控えているのにこれ以上患者を混乱させるなって」「……」里中は黙って話を聞いている。「とりあえず、長井の両親とは連絡が取れましたよ。実家が北陸のようで明日にはこの病院に着くそうです。」「長井の両親には全て話したんですか?」
夜の帳が下りて来た。すっかり暗くなってしまった部屋で千尋は膝を抱えて座ってる。警察官が帰った後、千尋は必死でヤマトを探し回った。長井が倒れていたという歩道橋の下にも行ってみたし、初めてヤマトと会った場所もくまなく探した。そして保健所まで捜しに行ったが、結局ヤマトを見つけることは出来なかった。もしかすると自分が不在の時に家に帰ってきているのではないかと思い、急いで帰宅してみれば予想は見事に覆された。 目の前にはヤマトの餌と水が置かれている。「ヤマト……」千尋は今日1日一切食事をとっていなかった。祖父が亡くなってから1日たりとも側を離れなかったヤマトがいない。胸にぽっかり穴が空いてしまったかのようだ。好きな料理を作る気力も残っていなかった。「どこへ行ってしまったの? ヤマト……あなたまでいなくなったら私本当に独りぼっちだよ……」千尋は肩を震わせて泣き続け、やがて疲れ果ててそのまま眠りについてしまった。「う……ん……」眩しい朝日が千尋の顔に当たった。「え?」千尋は慌てて飛び起きると自分の今の状態をぼんやりと考えた。「確か、昨夜はヤマトが帰って来るのをこの部屋で待っていて……それでそのまま眠ってしまった……?」時計を見ると6時を指している。床で眠ってしまった為、身体中がズキズキと痛む。「……取り合えずシャワー浴びよう……」ノロノロと起き上がり、着替えを自分の部屋から取ってくると脱衣所で服を脱ぎ、熱いシャワーを浴びて着替えた。「食欲……無いな」昨日から何も口にしていないが、何かしら食べないと。そう思った千尋はバナナをカットしてガラス容器に入れると冷蔵庫から無糖のヨーグルトに蜂蜜をかけた。「いただきます」手を合わせ、ゆっくりと口に運ぶ。たった1人きりの食卓がこれ程寂しいものだとは思わなかった。「私って……こんなに寂しがりやだったんだ」千尋はポツリと呟いた。本来なら今日も仕事を休んでヤマトの行方を捜したかった。けれどもいつまでも店を休んで職場の皆に迷惑をかけるわけにはいかない。それに働いていれば寂しさも紛れる。「今日は出勤しよう」千尋は簡単な朝食を済ませ、片付けを終えると中島の携帯にメッセージを送った。『本日は出勤します。ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした』(お弁当、作り損ねちゃったからコンビニに寄ってから出勤
「千尋……怪我は無い?」「う、うん。大丈夫。」「良かった……」渚は千尋を思い切り強く抱きしめると安堵の息を吐いた。「な、渚君……もう大丈夫だから。は、離して……」「え?」その時、初めて渚は千尋を抱きしめているのに気が付いたのか、顔を真っ赤に染めて慌てて千尋を離した。「ご、ごめん……。千尋が心配になって、つい……」「い……いいよ。そんなこと気にしなくて……あ! 大変! 鍋が噴きこぼれそうだよ!」「うわ! ほんとだ!」渚は慌ててガス台に戻り、火を弱めて料理に続きを始めた。その姿を見ていた千尋の心臓はドキドキいってる。(びっくりした……。まだ渚君の匂いが残ってる気がする……) パスタも出来上がり、テーブルの上には他にサラダとチキンが並べられた。ケーキは食後にと冷蔵庫に冷やしてある。椅子に座ろうとすると、渚が話しかけてきた。「そうだ! いいものがあるんだ」そう言うと席を立ち、大きな紙袋を持って戻ってきた。「なあに? それ?」「ほら、小さいけどクリスマスツリー買って来たよ」それはテーブルの上の乗りそうな小さなクリスマスツリーだった。「わあ。可愛い」千尋が喜ぶと更に渚は言った。「まだあるよ。はい、クリスマスプレゼント。…気に入るかなぁ?」渚は小さなラッピングされた袋を手渡した。「え? 私に?」千尋が中を開けてみるとそれは可愛らしい犬のデザインのネックレスだった。「犬の……」「うん、千尋は犬が好きなんだよね? だから探して買ってみたんだ。つけてあげるよ」渚は千尋の背後にまわり、ネックレスをつけると鏡を見せた。「良く似合ってるよ、千尋。すごく綺麗だよ」熱を帯びた渚の話し方に胸の鼓動が高鳴る。「あ、ありがとう」何とか、それだけを必死に言った。「実は私からもプレゼントがあるの」千尋は足元に置いておいた紙袋を渚に手渡した。「開けていいの?」渚の問いに千尋は黙って頷いた。「これは……」そこに入っていたのはダークグリーンのマフラーだった。「もしかして手編み?」「お店の休憩中に毎日、ちょっとずつ……ね。気に入ってくれるといいけど」渚はマフラーを巻き付けると笑顔を向けた。「勿論だよ! 僕の一生の宝物だよ」「一生だなんて、大げさだよ」「僕がどれほど今幸せか…言葉では言い表せない位だよ。ありがとう、千尋」その後、
「うわ……ほんとだ。俺とタメかよ。なら敬語なんていらないな?」里中は少しだけ口元に笑みを浮かべた。「うん……? それにしても何だかここに写ってる写真と、今のお前雰囲気が違う気がするな」顔の作りは全く同じだが、目の前にいる渚は終始笑顔で人懐こい印象がある。一方免許証に写る渚の顔はどことなく目つきが鋭く、やさぐれた印象を与える。「僕は写真に写ると、少しイメージが変わるんだよね」渚は免許証をひったくるように里中の手から取り上げた。「それじゃ、そろそろ僕は帰るね。冷蔵庫にヨーグルトとイオン飲料を入れておいたから良かったら飲んで。あ、それから冷凍食品も幾つか買ってあるよ」「そんなに買ってきてくれたのか。悪い、今金を……」「あーそんなの大丈夫だから。お金は近藤さんから貰ってあるから。本当、いい人だよね。近藤さんて」「ああ…お前もな」「いいんだよ、気にしないで。あ、それから今夜のクリスマスパーティーも中止にしたよ」「え? どうして?」里中は首を傾げた。「千尋が言ったんだ。折角のクリスマスパーティ、里中さんが一人出席できないのは気の毒だから今回はパーティーに参加しないって言ったら、その流れで中止になったんだよ」「! そんな、俺一人のせいで……。ほんと、俺って駄目だな。お前にも変な嫉妬心なんか持って……」「里中さんはすごくいい人だと僕は思うよ。職場での評判すごくいいんだってね。お年寄りの患者さん達をすごく大切にしてくれてるって。だから……僕も思ったんだ。この先、僕にもしものことがあったら……千尋のことよろしくね」渚の顔に影が落ちる。「お前、またそんなこと言って……。一体どういう意味なんだよ」「別に、言葉通りの意味だよ。僕はずっと千尋の側にいる事は出来ないんだ。でも、この話は絶対に千尋にはしないでね? 心配させたくないから」「だから、どうして千尋さんの側にずっといられないって言うんだ?」納得できず、里中は追及する。(こいつ……何て顔してるんだよ。でもこれじゃ、無理に聞けないな)「分かったよ。俺もこれ以上聞かない、約束する」すると、渚の顔にほっとした表情が浮かんだ。「ありがとう、じゃあ帰るよ。ちゃんと休まないと風邪治らないからね?」「ああ、分かってるよ。サンキューな」渚は玄関のドアを開けて出て行った。里中は渚が出て行くのを見届けると再
こんなはずじゃなかったのに——クリスマスイブ、里中は高熱を出してワンルームマンションの自分の部屋で寝込んでいた。「くっそ……頭がズキズキする………」前日の夜、クリスマスパーティーのことを考えると興奮して眠れなかった里中。コンビニで買って来た度数の強いアルコールを部屋で飲み、そのまま布団もかけずに眠ってしまった。そして朝起きた時には酷い風邪を引いていた。何とか職場には風邪の為に出勤出来ない旨を話し、近藤にも詫びを入れて貰うように主任に電話を入れる事が出来たのだ。(先輩、すみません……)熱で朦朧となりながら心の中で近藤に謝罪した。時計を見ると昼の12時を少し過ぎた頃だった。「あ~腹減った……」高熱を出しているのに空腹を感じるとは皮肉なものである。しかし普段殆ど自炊等したことがない里中の家の冷蔵庫は缶ビールと牛乳が入っているのみである。こんなことなら普段から何かあった時に食べられる冷凍食品でも買い置きをしておけば良かったと里中は思った。「う……トイレに行きたくなってきたな……」本当は布団から出たくは無かったが、我慢する訳にはいかない。何とか起き上がると、壁伝いにトイレへ向かう。「……」そしてトイレから出て布団に戻る途中で里中は意識を無くして倒れてしまった——****「ん……?」次に目が覚めた時は布団の中だった。額には熱さましシートが貼られている。ふと、誰かが台所に立っている気配が感じられた。「誰か、いるのか……?」その時。「あ、気が付いたみたいだね?」台所から顔を出したのは渚であった。「な? お、お、お前……どうして俺の部屋に?」里中は布団から起き上がりながら尋ねた。「あ、まだ起きない方がいいよ。里中さん、部屋で倒れてたんだよ。熱だってまだ高いし。でも目が覚めて良かったよ。風邪薬買って来たから枕元に置いておくね」渚はお盆に水の入ったコップと風邪薬を枕元に置いた。「悪いな。ところでさっきも聞いたけど、どうして間宮が俺の部屋にいるんだ?」「お昼を食べに来た近藤さんから聞いたんだよ。里中さんが高熱を出して寝込んでいるから心配だって。様子を見に行きたいけど今日は人手不足で手が足りなくて抜けられないって聞かされたんだ」「うん、で? それと間宮がどんな関係があるんだ?」「幸い、僕の部署は今日手が足りてるから一人ぐらい居なくても
「ち、千尋さん!」「はい?」突然大きな声で名前を呼ばれて千尋は返事をした。「あの、来週のクリスマスイブ、何してますか!?」「え……と? 普通に仕事ですけど?」「そ、そうですよね。お花屋さんなんて1年でも最も忙しい日かもしれませんよね。ハハハ」「里中さんも仕事ですか?」「はい……。しかもあの鬼のような先輩に遅番のシフト無理やり交代させられたんですよ。どうせ何も予定が無いから別にいいんですけどね……」「私も遅番なんですよ。でも仕事が終わったら<フロリナ>の人達とお店でクリスマスパーティー開くことになってるんです。もしよければお店にいらっしゃいますか?」「え! それ本当ですか!?」「はい、あ……でもパーティーと言っても大したこと出来ませんよ? 仕事の終わった後なので料理の準備が出来ないからデリバリーのピザや買って来たチキン……それにクリスマスケーキといった簡素なものなんですけど。毎年クリスマスはこんな感じで過ごしてるんです。それに今年は渚君も来るし、里中さんも、もしよければ……」「行く! 絶対に行くっす!」本当は二人きりで過ごしたいところだが、一人寂しくイブを過ごすよりも大勢でパーティーで盛り上がった方が数倍楽しい。しかも千尋がいれば尚更だ。「それじゃ、<フロリナ>の人達にも話しておきますね」千尋はにっこり笑った。(くう~! 神様! 生きててよかった! 先輩、感謝します!)ついでに前方を歩く近藤に感謝する里中であった。 近藤が連れて来たラーメン屋は豚骨スープのラーメンとあっさりした魚介で出汁をとった魚介スープの2種類を扱ったラーメン屋であった。麺は太く縮れてスープによく馴染む。「美味しい!」千尋はラーメンを一口食べて感嘆の声をあげた。千尋の食べているラーメンは塩の魚介スープ味だ。「千尋、これも美味しいよ。このトッピングの味卵もいいね」渚が食べているのは魚介スープの味噌味。一方、里中と近藤が食べているのはこってり豚骨スープの味噌ラーメンである。「あ~あ……結局こうなるのか……」里中は千尋と渚が並んで座って楽しそうに食べているのを横目でチラリと見て言った。あいにく店が混雑していてカウンター席で二人一組で別れて座る事になってしまったのである。「何だよ、折角人が気を利かせて千尋ちゃんと喋れる場を用意してやった俺にそんな口聞いて
近藤は手を振りながら千尋と渚の前に姿を現した。「あ、近藤さん。こんばんは」千尋が頭を下げた。「あれ? どうしたんですか? ん? 後ろのいるのは里中さんですか?」渚は近藤の後ろに隠れるように立っていた里中に気が付いた。「こ、こんばんは……」渋々里中は千尋と渚の前に姿を見せた。「凄い偶然だな~。俺達飯でも食べようかって一緒に駅まで来たんだよ。そしたら間宮君が千尋ちゃんと一緒の所を見かけて声かけたんだよ、な? 里中」近藤はその場で考えた嘘をペラペラと喋った。「あ、う、うん。実はそうなんだよ」仕方ないので里中も話を合わせる。「ふ~ん、やっぱりお二人ってすごく仲がいいんですね」千尋が近藤と里中を交互に見ると、渚が教えた。「うん。近藤さんと里中さんは大体いつもお昼ごはんを一緒に食べに来るんだよ」「なあ、どうせなら皆でこれから飯食べに行かないか? 俺美味いラーメン屋知ってるんだ? 千尋ちゃんはラーメン食べるかい?」近藤が尋ねる。「そうですね……。私はラーメン好きだけど、渚君は食べる?」「うん、千尋が食べるなら僕も食べるよ」二人が顔を合わせて話すのを里中は暗い気持ちで見ていた。その様子に気が付いたのか、近藤が明るい声を出した。「よおし! それじゃ皆で行こうか。間宮君、実は俺前から君と話がしたかったんだよね~」近藤が渚の隣に並んで話しかけてきた。「え、何ですか? 話って」「まあ、歩きながら話そうぜ」そして強引に渚を連れて先頭を歩き出した。後ろを振り返った時、近藤は里中に目配せした。(頑張れよ)そう応援しているかのように見えた。(先輩……俺の為に?)里中は近藤に勇気づけられて千尋に向き直った。「俺達も行きましょう、千尋さん」「そうですね。行きましょうか?」(どうする? でも一体何を話せば良い?)本当は話したいことは沢山あった。けれどもいざ千尋を前にすると緊張の為か何を話せば良いか分からない。でも黙ってるのも気まずい。「あ、あの千尋さん」里中は思い切って口を開いた。「はい?」「千尋さんはラーメンは何派ですか? 俺の中ではやっぱりラーメンと言えば豚骨味噌味が一番ですよ」「そうですね。私だったら、あっさりした醤油ラーメンかな?」「あー醤油もいいっすね~。特に刻み葱がたっぷり乗って大きなチャーシューがトッピングされてい
夜の公園で話をした後、里中は仕事の合間に渚を注意深く観察することにした。理由は渚のあの時の言葉の真意を測る為である。自分に残された時間は少ない等と意味深なことを言われては気になるのも無理はなかった。なので自分と帰る時間が重なる時は待ち伏せして様子を見ることにしたのである。今日がその第1日目であった。 通用口で渚が出てくるのを見張っていたその時。「何だよ、里中。お前探偵にでもなったつもりか?」近藤が後ろから肩をポンと叩いてきた。「うわあああっ!」里中は驚いて大声を出してしまった。「先輩! 脅かすのはやめてくださいよ! 心臓に悪い!」「な、何言ってるんだよ。あんな大きな声で叫ばれたこっちの方がおどろいたじゃないか」余程驚いたのか、近藤は胸を押さえている。「ところで、お前まだ千尋ちゃんの男を見張ってるのか?」「まだ千尋さんの男と決まったわけないじゃないです」「お前なあ、若い男女が二人きりで一つ屋根の下に暮らしてるんだぞ? 本当に何も無いと思ってるのか?」「言わないで下さいよ! 想像もしたくない!」里中は両耳を押さえる。「俺は今、間宮の動向を探るので忙しいんですから」再び里中は通用出口に目を移した。「お前、本当に暇人だなあ。なあ、そんなのやめて今から俺と飲みに行こうぜ?」「嫌ですよ。先輩酒に弱いじゃないですか。もう先輩のおもりするのはごめんです。あ! 出て来た」里中は現れた渚に注目した。「先輩、俺はあいつの後をつけるんで失礼します」「ふ~ん。俺もついてこうかな? どうせ今夜は暇だし」「駄目です、ついてこないで下さい」「それじゃ、なぜ間宮君を見張ってるのか教えてくれたら、ついてくのやめてやるよ」「それは……」「あ~っ! そんな事より見失うぞ!」近藤に言われて、慌てて里中は後を追った。当然のように近藤もついてくる。「なあ、こんなことして意味あるのか?」「先輩、文句があるならついてこないで下さいよ」渚はバス停で止まった。「あ、バスに乗るみたいだな? どうする? 俺達も乗るのか?」「勿論、乗りますよ」バス停には20人前後の人々が待っていた。里中と近藤は前方に並んでいる渚よりも10人程後ろで並んだ。やがてバスがやって来ると列に並んでいた人々がぞろぞろ乗り込んだ。渚も乗ったので、里中と近藤も後に続く。バスに揺られな
退勤後――里中は寒空の下、職員通用出口で渚が出てくるのを待ち伏せしていた。こんな事をしていても無意味なことは分かっていたが、どうしても確認しておきたいことがあったのだ。暫く待っていると渚が出て来た。「おい、お前!」里中は渚の前に立ちふさがる。「……少し、時間くれるか?」「あれ? えっと、君はさっきの……?」渚は首を傾げた―― 二人は人気の無い公園に来ていた。里中は口火を切った。「俺はリハビリステーションスタッフの里中だ」「うん、そうだったね。ところで僕に何か用なのかな? 悪いけど、千尋が家で待ってるからあまり時間はとれないんだ」何気なく言った渚の言葉は里中の神経を逆なでした。里中はグッと両手を握りしめると言った。「やっぱり、二人は一緒に暮らしてるのか?」「そうだよ。今は一緒に暮らしてる。僕が料理担当で千尋は掃除と洗濯担当だよ。千尋はね、すごく僕の料理を褒めてくれるんだ。だからもっともっと美味し料理を作って千尋を喜ばせたいと思ってるよ」当然その話に増々里中のいら立ちは募る。「俺………お前よりもずっと前から千尋さんの事が好きだった。俺だって、彼女のこと喜ばせたいよ。くっそ、俺の方が早く出会っていたのに……」「君も千尋のこと好きだったんだ。僕も千尋のことが大好きだよ。一緒だね?」渚はさらりと笑顔で言う。「お前なあ、自分で何言ってるか分かっているのか?」「うん、良く分かっているつもりだけど?」「く……」里中は唇を噛んだ。(何だ? こいつの思考回路は少しおかしくないか?)「もう帰っていいかな? 千尋が家で待ってるから」渚は踵を返した。「お、おい! 待てよ! まだ話は終わってないぞ!」里中が渚を引き留めようとすると、渚の足がピタリと止まった。「……悪いけど、あまり待てないんだ」渚の口調が突然変わった。「え?」振り向いた渚の顔からは表情が消えていた。「僕には、君と違って時間が無いんだ。だから、少しでも長く千尋の側にいたい」「え? お前一体何を言ってるんだ?」「僕にとっては君の方が羨ましいよ。だって……僕にはあまり彼女と一緒にいられる時間が残されていなんだから……」月明かりを背に、渚の瞳は涙で濡れているように見えた。「! お前、何言って……」「それじゃ、里中君。また明日ね」次の瞬間渚の顔からは悲しみの表情が
「千尋ちゃん、今日も渚君の手作り弁当なの?」千尋と一緒にお昼休憩をとっている渡辺が声をかけた。「はい。渚君、自分の分はいらないのに、わざわざ私の分だけ作ってくれたんです」「あらま、自分の分はいらないってどういうこと?」「レストランで働いている人たちには、まかないがあるそうなんですよ」「へえ~羨ましいわね。ところで、今日は渚君迎えに来てくれるの?」「今日は私の方が帰りが早いので買い物して先に家に帰るつもりです」 「それじゃ、今夜の夕食当番は千尋ちゃんなの?」「はい、最初は渚君食事は全部自分で作るって言ってたんですけど、どちらか早く家に帰れた方が食事を作るってことに決めたんです」「ふふふふ……」渡辺が意味深に笑う。「な、何ですか?」「もう完全にのろけね、それは。いや~千尋ちゃん、愛されてるわ~」「そんなんじゃ、無いですよ! 私と渚君の間には何もありませんってば」千尋は顔を赤らめて抗議した。「そうかなあ~。誰の目から見ても、少なくとも渚君は千尋ちゃんに好意を抱いてるわよ? それとも千尋ちゃんは渚君に好かれると迷惑なの?」「そんな、迷惑だなんて思ったこと無いです」「嫌いじゃないんでしょ? 渚君のこと」「もちろんです」「だったら何も問題無いじゃない? 渚君に思われて悪い気はしないんでしょ?」千尋は頷いた。むしろ渚に好意を寄せられるのは嬉しい。けれど、渚は時々どこか遠い目をする時がある。近くにいるのに二人の距離は離れているように感じる時もある。後で自分が傷つくのでは無いかと思い、千尋はどうしても渚には深入りすることが出来なかった――**** 食事を終えて里中と近藤は職場に戻りながら話をしている。「それにしても驚いたな。まさかこんな場所で偶然会うなんて」「……はい」里中は神妙な顔で頷いた。「まあ、ライバルが同じ病院内で働いているのはお前にとってはあまり穏やかな気持ちにはなれないかもなあ?」近藤はニヤニヤしている。「先輩、面白がってませんか?」「そもそも、お前がもっと早く千尋ちゃんに告っていれば、間宮君と一緒に暮らすことにはならなかったんじゃないかな……っとやべっ!」近藤は慌てて口を押えたが手遅れだった。「先輩……」里中の瞳が鋭さを帯びた。「ヒッ!」近藤は小さく悲鳴をあげる。「一緒に暮らしてる……? 一体ど
「おはよう、青山さん」 11時、遅番の中島が出勤してきた。「おはようございます。店長」千尋は花の世話をしながら挨拶をした。「あら? 今朝は渚君の姿が見えないわね? いつも遅番の誰かが出勤してくるまでにはお店にいるのに」「実は渚君、新しい仕事が見つかって本日から仕事始まったんです」「え~そうなの? 仕事何処に決まったの?」「それが、何と山手総合病院にあるレストランで働くんですよ」「え? まさかあの病院のレストランで? 一体どういう経緯でそうなったの?」「この間、病院に生け込みの仕事に行ったときにリハビリステーションの野口さんからコーヒー券頂いて二人でレストランに行ったんです。その時に人手不足で困っている話を聞いて、その場で面接して採用されたそうですよ」「ふ~ん、それじゃ今日は初日ってわけね?」「はい。…上手く行ってるといいんですけど」千尋は新しい職場で働いている渚に思いをはせた……。****「おい、里中。今日の昼飯どうする?」昼休憩に入ろうとする里中に近藤が声をかけた。二人でお酒を飲みに行って以来、何かとつるむ仲になっていたのだ。「う~んと……特に考えてないすけどね」「それじゃ、新しく院内に出来たレストランに行ってみないか? ほら、職員割引がきくし」そこへ同じリハビリスタッフの30代の女性職員が声をかけてきた。「あ、お二人ともレストランに行くんですか? 私もさっき行って来たんですよ。何でも今日から若い男性が働いているらしくて、ものすごーくイケメンなんですって。院内の女性職員達が騒いでました。私はあいにくその男性に会うことが出来なくて残念だでしたよ」「へえーっ。そうなんだ。でもヤローには興味ないなあ。どうせなら若くて可愛い女の子が良かったのにな」女性職員が去った後、近藤は言った。「何言ってるんすか。先輩、彼女いるじゃないですか。いいんですか、そんなこと言って」「バッカだなー。勿論俺は彼女一筋だよ、でも目の保養する分にはいいんだよ」「まあ、イケメンはどうでもいいですけど新メニューは気になりますよね。行きますか? 先輩」「おう! 行ってみるか」****「うっわ! なんじゃこりゃ。すげー混んでるな」レストランのテーブル席は満席だった。しかも良く見ると女性客が多い気がする。「ふーん、皆そのイケメンとやらに興味があって来